特別講演    大災害と子どもたちの支援

兵庫県立舞子高等学校 環境防災科 諏訪 清二


兵庫県立舞子高等学校は、阪神淡路大震災後に日本で唯一の環境防災科を立ち上げ、10年目をむかえた。3分の1が防災の勉強で、後は普通の勉強をしている。
阪神大震災を経験するまで、防災教育イコール避難訓練だと思っていたが、そうではなかった。阪神大震災では、88%が家屋や家具の倒壊、10%が火災で亡くなった。火災が起きたが水が出ず、ホースを持って立ちつくす消防隊員の姿があった。古い家屋が倒壊し、一階で寝ることが習性になっていた多くのお年寄りが亡くなった。そのほとんどが、地震から15分間のことだった。消防や自衛隊が一挙にすべての人を救助することはできない。市民が市民を助けた。自分たちの命を自分たちで守った。そのほとんどは自助(自分で助ける)と共助(お互いに助け合う)だった。その後に公助(公の助け)がきた。お年寄り、赤ん坊、障害のある人など、自分を守れない人もいる。だから、共助の社会が必要だ。

防災教育には、風邪をひいてから薬を飲むのではなく、風邪をひかないようにするのと同じように、災害が起きても命を失わない備えが必要だとの考えで、舞子高校では、次の3要素を勉強している。 
1.避けることはできないから、
ハザード(災害を起こすかもしれない自然現象)を学ぶ。
2.過去の体験から、
災害対応(救助・避難所開設・救援物資・支援)を学ぶ。
3.被災に備え、
社会背景(近所づきあいなどが脆弱になってきているがそれを強くするなど)を学ぶ。
この3つは学校教育すべてかかわることであり、机上のものではなく、阪神淡路・中越・能登から学ぼう、そして現在進行形の東日本大震災から学ぶことが大切だと考えている。
阪神大震災後、命の大切さ・助け合い・思いやりのすばらしさを災害体験から学ぶことを教育の中心におく教育が兵庫県ではじまった。たとえば、防災の学習の後にアサガオの種を渡す。それは阪神大震災で亡くなった小学生2年生と5才の子が育てていたアサガオの種で、おじいさんが瓦礫の中からみつけ、学校に寄贈したものだ。学校で、アサガオを育て、花を咲かせ、種を広げるというとりくみだった。学校ではことばで価値を教えがちだが、そうではなく、アサガオの花を象徴として子どもたちに伝え、命の大切さをストンと飲み込んでいける。それが新たな防災教育と言われている。そういう教育が“被災地”では行われている。
未災地(“未病”と同じ、これから被災するかもしれないということで“未災地”と名づけた)では危機感が薄く、防災教育への意識づけがむずかしい。だから、楽しくとりくめる防災教育が開発されている。インターネットで「防災教育チャレンジクラブ」を検索してみてほしい。全国の防災教育の実践がたくさんあり、そこで生まれたのが
『防災+αの防災教育』だ。
滋賀県立彦根工業高校土木課では、かまどベンチをつくっている。かまどに天板を置いてベンチにするかまどベンチは、小学校で子どもたちとつくる。高校生は小学生の質問に答えられるように地震について調べたり、一緒に防災の勉強をする。また、老人ホームでは経験のあるお年寄りに教えてもらいながら一緒につくり、炊き出しをする。そこで顔合わせができ、人と人のつながりができる。もしもの時、高校生が助けに来てもらえるというつながりができる。ものづくりというプラスαが、地域づくりにもなる。
岐阜の障害者施設では、地域といっしょに防災運動会が行われている。災害時に備え、日頃から仲良くしておこう、顔合わせをしておこうということではじまった。火災に備えたバケツリレー、借り物競走では、各家から被災時に必要なものを持ってきて「情報」と書いてあればラジオとかワンセグとか…と、考えながら行っている。このような障害のある人と地域の人たちとの普段からのつながりが大切だ。
プラスαというのは福祉であったり、地域であったり、遊びであったりする。こような防災教育が全国に広がっていった。
2011.3.11 大きな地震と津波が起こった
岩手県宮古市田老地区には、高さ10m、長さ2.4kmの日本一の堤防があったが、安全ではなかった。過去、何度も津波被害があり、多くが避難したが、大きな堤防があるからと避難しなかった人、忘れ物を取りに戻った人もいて、たくさんの人が亡くなった。地元の人は、堤防は津波を防げなかったが、一つ大きな仕事をしてくれたと言う。流された人が海に持って行かれることだけは止めてくれたと。
岩手県陸前高田市、松が1本残ったことで有名だ。何万本の松林は防風林にはなっても防潮林にはならない。倒れた松が凶器となって町を破壊した。高田高校は、3階まで水没した。部活していた子どもたちの多くは山に避難した。裏山に逃げた子どもたちはすぐに支援をはじめた。逃げてきた人たちに自分たちの上着を着せたり、ビスケットと飴をお年寄りに渡した、カーテンを外してお年寄りに掛けてあげるなど、一生懸命に支援を続けていた。被災地では中高校生が当たり前のように支援側にいた。
震災前から舞子高校と交流のあった釜石東中は、1階だけが水没する想定だったから、3階や屋上に避難すればいいと考えるだろうが、教職員は高台に逃げることを選択した。普段から中学生が隣の小学校の子どもたちの手を引いて逃げる訓練もしていた。グランドに集合するマニュアルを省き、「逃げなさい、走りなさい、自分の命は自分で守りなさい」と教職員が大声で叫んだ。中学生はその声を励みに走る。中学生をみて3階にいた小学生も階段を駆け下りて走って逃げた。地域の人もそれを見て逃げた。彼らは地域の人の命も助けた。
第一避難所に来たおばあさんがこんな崖崩れは今まで見たことがない、これは危ないといい、それを聞いた教職員がすぐに判断し、もっと上に走って逃げようと言った。逃げた直後に津波がきた。もし、崖崩れがなかったら、もしおばあさんが何も言わなかったら、もし先生の判断がなかったらどうなっていたのか。第二避難所から足元をみると、自分たちの町が流されていった。
このことをマスコミは「釜石のキセキ」というが当事者は奇跡ではないという。奇跡とは起こらないことが起きた時に使うものだ。崖崩れ、おばあさんの話、臨機応変に判断した教職員、日頃から防災を話し合い、臨機応変に対応しようとしてきた。これを奇跡としてヒーローをつくることは危険であり、後世につながらない。起ったことを一つひとつ検証し、その事実を防災教育にいかすことが大切だ。
宮城県の大川小学校では、子ども108人中70人が亡くなり4人が行方不明、教職員が11人中9人が亡くなり1人が行方不明になっている。防災教育関係者は、誰もしゃべりたがらない。本当につらいから話せないが、できるだけ多くの事実を集め、真実を追究することが大事だ。親の気持ちとして、子どもが最後にどう生きていて、どうなったかを知りたいのだ。それが子どもの命と向きあうことになる。だから「悲劇」ということばで覆い隠してはいけない。抜かっていたところがあればそれを追究することが必要だが、事実の追究と責任の追及は分けて考えなければならない。教職員の判断ミスと言われているが、行政のハザードマップでは、この地域は津波の危険地域ではなかった。過去三度の大津波でも被害がなく、津波が来ない地域と言われていた。だからマニュアル通りのことをしただけであり、わかっていたら逃げたり、山への避難道も整備していたはずだ。行政は自然災害の宿命だと言ったりしているが…。
これからの防災教育は、想定を信じない防災教育が必要だ。東日本大震災で想定を信じて、避難所で津波に飲み込まれた人、想定を信じて家で飲み込まれた人がいた。想定10mの津波なら20mの津波がくるかもしれないし5mかもしれない。人は想定を知らされると、それ以下だと考えてしまうことが問題だ。想定外とは学者の逃げだ。学者は責任を感じるべきだし、教職員は、マニュアルを作り、すべてが想定通りに始まって終わっていくような教育をしていていいのか。大川小であれば、想定なんてほったらかして、「津波だ逃げろ!」と言える子どもや教職員を育てるのが防災教育だと考える。この考えが今の教育からなくなっていたのかもしれない。知識を頭に入れて、いい点数さえとれればいいという教育がはびこっている。それを変えていく仕事をわたしたち教職員がしていかなければならないのではないかと思っている。そのためにも、臨機応変な判断力をつける防災教育が必要である。
臨機応変な判断力をつける防災教育には2つの観点がある。一つは、
Survivor(生き残る)となるための防災教育だ。たまたま生き残るのではなく、主体的に生き残る教育。例えば60秒揺れたら津波が来ると思い逃げなさいと教え、臨機応変力を育む。語り継ぎによる防災体験の代理体験、自分のこととして受け止める力が必要である。もう一つは、Sopporterとなるための防災教育。今、被災地でボランティアのみなさんが一生懸命支援しているが、支援にもいい支援と困った支援がある。過去の教訓で困った支援はせず、いい支援を続けるということが大事、よきサポーター(支援者)となるための教育が必要である。
「学力の樹」という考えがある。は子どもが学びとる知識・技能、微分積分のようなもので、大人になるとほとんど剥落している。しかし、替わりに人権・平和教育など、新しい葉が生えているように、葉は常に更新している。は、状況を考え(思考力)判断し(判断力)、行動に移す(表現力)こと。教育の中で、葉っぱ(知識や技能)を使い、体験の中で学ぶことで、幹を太らせる。そして、は意欲・興味・関心・態度。大学入試に出るから…ではなく、なぜその勉強をしたいのかを育てる。この3つが学力であり、防災教育もこの3つを勉強することであり、防災教育は教育改革の一つになると考える。
被災地のこどもたちと教職員
4月の初めに高校生を連れて、石巻の小中学校へ掃除に行った。阪神淡路の時、学校に子どもたちが集まり、生きていたことを確認しあい、そこからいろんな授業がはじまった。被災地の学校は、子どもたちのよりどころだ。掃除に行ったら、地元の先生が一緒にきてくれたが、それじゃダメだ。地元の先生は毎日子どもたちと向きあえるよう、外部の者が掃除などをして環境を整えるようにしなくてはいけない。日教組は何をやっているのかと思った。それこそ、日教組がすべきことだったのではないか。
被災地の子どもたちの辛さは3つに分類される。一つは、
災害そのものへの恐怖、もう一つは、大切な人・もの・町などの思い出を失ったつらさ(喪失体験)、そして不便な生活だ。
舞子高校の生徒と東松島の被災地に行った。避難所で小さい子どもたちが、最後に遊んだものを全部放り投げて「津波がきた
」と叫んだ。生徒はどうしたらいいのかと聞いてきた。女子生徒には、高校生はつらいことがあったらことばに出せるが、小さい子はつらいことをことばに出せずにいる。だから一緒に遊んだり、寄り添うことが大事だと話した。目の前の子どもたちとどうつきあうのかが大きな問題。教職員は、心のケアの知識を学んでおくべきだ。カウンセラーなどの専門家に丸投げするということはしないで、任せきらず、自分たちが関わり、日常の中でケアをすることが大切である。
学校の中では、楽しいことをいっぱいする。帰りのホームルームでゲームをする。最後に楽しい思いを持って家に帰る。心のなかはつらいことでいっぱいだけど、学校って楽しい場所なんだということをゲームを通して子どもたちに伝える。釜石東中学校ではずっと歌っている。歌って楽しいということでつらさを緩和している。学校って楽しいと、教職員が被災地で工夫しながらやってるんじゃないかと思う。
転校がたくさんある。教職員は、転校して行った子どもたちをどう支えるか悩みながら、連絡を取り続け、関係を持ち続けている。阪神淡路の時に転校した子の話。転校先はみんなやさしいが、それが苦痛だったという。自分の居場所ではないと感じる、でも帰るところはない、居場所探しをしていたという。ホッとできる場所がなかったと。それは、受け入れた側の教職員も直面しているのではないかと思う。
子どもたちは、不便な生活を送っている。1時間かけて学校に来て、仮設に帰る。隣近所から声が聞こえ、なかなか一人になれない。もちろん自分の部屋もない。寒い。ストレスがいっぱいある生活から抜け出せない。子どもたちも現状を十分わかっているからどうしようもない。しかし、子どもたちに夢を持ってもらうことはできるのではないか。そのひとつが復興計画を子どもたちがつくることだと考える。復興計画は大人や有識者という人がつくる。そこに子どもの夢を入れてもらってもいいのではないかと思っている。
震災を経験し、復興に携わりたいと、ふるさとに残る若者が増えた。阪神淡路では、子どもたちが自分たちの町づくりに参画し、子どもたちの提案を議会がとりあげ、大きな達成感をもつことができる。子どもたちや若者に達成感を味わわせ、自己肯定感の持てる場所をおとながつくっていくべきだ。震災の時に、何もできなかったという思いを持っている子どもたちが、何かをやったら達成できる。そういうことを体験できる場が非常に大事だ。大人のがんばりが、子どもの心の復興につながっていくのではないか。
被災地の子どもは、被災者であるだけではない
阪神淡路の時、子どものすることはない、帰っていいと言われたが高校生がひとりぼっちでいるお年寄りに気づき、声をかけていった。それをノートに記録して次の子に伝える。中越の時、大人たちを元気づけるために笑顔の絵を描いたり、歌を歌ったりして励ました。被災地の子どもたちが支援者となり、子どもがいることで被災地が元気になる。大切なのは、「ありがとう」と言うこと。あなたの活動を認めている、感謝しているということばが、自分たちには居場所がある、やることがある、受け入れてもらっている、という自己肯定感につながる。子どもたちが自己肯定感をもてるような場を大人がつくるべきだ。
未災地の子どもたちの支援と参加
震災や原発事故に2つの意識をもっている、それは当事者意識と第三者意識。自分がそこにいたらどうしたのか、何ができるのか、何かしたい、という当事者意識。逆にテレビを見ているだけの自分、何かしたいと言いながら何もしない自分、第三者としての自分を責める未災地の子どもたちがいるかもしれない。
では、舞子高校は何をしているか。やっぱり、元気になろうとメッセージを送っている。人は大変なつらい、悲しい目にあったとき、四つの段階を経て心が回復する。第一段階は否定「嘘だ!」と、二段階目は怒り「何故だ!」、三段階目が絶望「独りぼっち、だれもわかってくれない…」と。その時にあなたがたのことを心配していますのメッセージを投げかける。それが「つながり」であり、世間では「絆」という。人との「つながり」が実感できて心が回復できる。
被災地と未災害地の子どもたち、未来に不安を持っている子どもたちがいる。わたしたちは支援という形で被災後に、できることを一生懸命にする。でもそれだけでいいのか。被災して、支援してみんなが幸せになったらそれでいいのか。もっと大事なのは、被災してもつらい思いをしない子どもたちをたくさん育てること、災害に備えること、つまり防災教育をきちんとやることが大切なのではないか。
2004年の中越地震以来、日教組の全国教研で4回ほど特別分科会で防災教育をやろうといってやったが広がらなかった。日教組も抜かっていた。だから、わたしたちはもう一度、日教組できちんと防災教育、サバイバルだけでなくサポーターの部分も含めた大きな大きな防災教育をする必要がある。
支援も大事である。しかし一方で、つらい思いを持っている子どもたちがたくさんいるという、そんな問題を減らすための防災教育にもう少しわたしたちは本気でとりくまなくてはいけない。そのための東日本大震災の犠牲は大きな代償だ。もちろん代償だという言い方は失礼で現在進行形である、それをわたしたちはきちんと受け止めて、今日からあすからなにをしたらいいのかを考えていきたいと思っている。
いっしょに防災教育をして、そして被災地の支援をやって行けたらと思っている。