03 July 2011
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わたしのボランティア日記
~第11次連合震災ボランティアに参加して~
2011.6.18~27 ベースキャンプ:岩手県気仙町住田
石川県教組 本部書記 太田あかね
【はじめに】
3月11日 東日本大震災が発生し、大津波で未曾有の被害が起きた。テレビでリアルタイムにその映像を見ていた。福島では原発事故が重なり手のつけられない状況が今でも続く。3月11日、家に帰ると4月に就職を控えた20才の三男がつぶやく。「おれ、就職まで時間あるし、ボランティアに行きたい!」。震災直後にボランティアはむずかしいけどその言葉が妙に心に残っていた。ボランティアが実現しなかった息子は毎日、「募金」という形で自分の気持ちを表していた。
その後「チャンスがあればボランティアに…」と思っていたわたしに今回チャンスがめぐってきた。ある人は言った。「ありがとう。大変なことを引き受けてくれて…」また、「私が行くべきかもしれないのにすみません」。どれもこれも、ちがう!単純にわたしは行きたかっただけのこと。しかし、毎日映像で流れる被災地のようす、被災者の人たちの話を聞きながらポロポロ涙を流しているわたしに果たしてボランティアができるのだろうか…と日が近づくにつれ不安になり、ナーバスになってくる。わたしに一体何ができるのか…。
しかし、行ってよかった。本当によかった。自分の目で見たこと、感じたこと、聞いたこと、そして第11次ボランティアのベースキャンプ住田のなかまたち(自称チームイレブン)。どれもこれもわたしにとっては貴重なもの。それを自分の心だけに留めておくのはもったいないので、レポートとして残そうと思う。
6月18日(土)日教組結団式 日教組会館
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今回参加する日教組のメンバーが全国から結集…。どんなメンバーなのか…女性はいるのか…結構緊張して会議室に入る。総勢15人。団長は広報部長の石山知義さん(静岡)。女性は4人。現地で1人合流して5人になる。女性は今までで一番多いらしい。北は北海道、南は長崎まで県教組委員長、書記長、専従、支部書記長、現職3人、退職者(石川から参加の森義久さん)、そして書記はわたしだけ。日教組は1.2.3.班に分かれ、わたしは女性班で2班。簡単な打合せの後、交流会。お酒も入ってちょっとだけうち解けたような不安が増したような…その夜はホテルでぐっすり眠る。
6月19日(日)連合本部にて結団式
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いよいよ出発の日…。総評会館の会議室いっぱいの参加者。岩手県だけで約130人。宮城、福島もほぼ同じ人数が参加し、それぞれに結団式をするらしい。連合本部からのあいさつ。そのなかで「心のこもった作業を、人に寄り添った作業・行動をしてほしい。捨てるものがあってもそれは何だったのかを考えてほしい」「ボランティアは人のためであるが自分のためでもある」という言葉が心に残った。赤い連合の帽子、災害救援隊というネームホルダーを受け取り玄関にて記念撮影、3台のバスに乗り込み岩手へ出発。玄関先で日教組から連合本部に出向している書記の青柳さんに出会う。青柳さんの笑顔でちょっと元気が出た。
10時30分出発。岩手までの長旅が始まる。並んで座った大阪の茨木市教組の書記長とおしゃべり三昧。花巻でベースキャンプごとに分かれ、わたしたち住田組は東和温泉に寄り夜7時20分にベースキャンプ住田に到着。ここは廃校になった五葉小学校を公民館として残した建物。五葉山のふもとの静かなところ。女性5人は和室、男性約40人は体育館で宿泊。ちょっと申し訳ない気分。その後全員で事務局の話を聞き、自己紹介をした。北は北海道から南は沖縄まで、そして初めて聞く単産名…。連合っていろんな人がいることを実感する。日教組は連合の中の一単産に過ぎないことを改めて感じた。全部で8班ある。夕食は毎日町から弁当やさんが運んでくる。全く期待していなかったが、とてもおいしくて充実している。食べ物がおいしいのはうれしい。配膳、後始末を各班ごとで行うことにしている。みんなとても手際がいい。さすがだ。
11時には消灯…。物音1つ聞こえない。規則正しい生活の始まりだ。その夜、なかなか寝付けなかったわたしは夜中の1時30分にゴーッと地響きする地震を体験した。(しかし、翌朝事務局の方の話ではその夜は3回地震があったそうだ)
10時30分出発。岩手までの長旅が始まる。並んで座った大阪の茨木市教組の書記長とおしゃべり三昧。花巻でベースキャンプごとに分かれ、わたしたち住田組は東和温泉に寄り夜7時20分にベースキャンプ住田に到着。ここは廃校になった五葉小学校を公民館として残した建物。五葉山のふもとの静かなところ。女性5人は和室、男性約40人は体育館で宿泊。ちょっと申し訳ない気分。その後全員で事務局の話を聞き、自己紹介をした。北は北海道から南は沖縄まで、そして初めて聞く単産名…。連合っていろんな人がいることを実感する。日教組は連合の中の一単産に過ぎないことを改めて感じた。全部で8班ある。夕食は毎日町から弁当やさんが運んでくる。全く期待していなかったが、とてもおいしくて充実している。食べ物がおいしいのはうれしい。配膳、後始末を各班ごとで行うことにしている。みんなとても手際がいい。さすがだ。
11時には消灯…。物音1つ聞こえない。規則正しい生活の始まりだ。その夜、なかなか寝付けなかったわたしは夜中の1時30分にゴーッと地響きする地震を体験した。(しかし、翌朝事務局の方の話ではその夜は3回地震があったそうだ)
6月20日(月)作業1日目
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朝、8時20分、ベースキャンプを出発。いよいよ始まる。どんな作業にも対応できるように、ヘルメット、ゴム手袋、つなぎの使い捨ての作業着、防塵マスク、鉄板入りの長靴、そしてお風呂道具を持ち出発。
1時間近くかけてボランティアセンターに到着。受付で今日の作業が割り当てられる。班ごとに仕事を割り振る。わが2班は「赤碕漁村センター」で写真の洗浄。一度テレビでみたことがある。結構精神的にきついなあ~と思いながら送迎の車に乗り込む。漁村センターに向かう途中、はじめて被災地をみる。周りは瓦礫の山。基礎しか残っていない家の跡。鉄骨むき出しのビル。テレビで見ていた風景が目の前に広がる…言葉にならない。右も左も同じ風景。小学校が見えてきた。2階まで水がきたらしく、もう使えなくて壊すんだと送迎のおじさんに教えてもらう。運動場は瓦礫置き場。もうこれでもかというほど高く積み上げてある。小学校前の道路を右折すると高台に保育園と漁村センターがある。その高台だけが被害を受けず残っている。そして避難所になっていた。
到着後、市役所の職員らしき人が「悪いけど、今から仮設住宅に荷物を運ぶから手伝って!」と結構ぶっきらぼうに話す。すぐに車に乗り、現地へ向かう。瓦礫の中を山のほうにすすむと被災を免れた地域に入る。しばらくすると仮設住宅が見えてくる。64世帯の仮設住宅。「○号棟の○号室 ○○さんち」というと鍵を開け軽トラの荷物を仮設に入れる。軽トラが何往復もして各世帯ごとに荷物を運んでくる。米、飲み物、缶詰類、カップヌードル、ペットボトル、トイレットペーパーなど、家族数に応じて数が違う。仮設の部屋数も家族数に応じて1Kから3Kまでそれぞれ…。よくみると集会場もある。ここが1つの町会となる。少しはなれたところには10世帯くらいの仮設がある。そこにも、荷物を運ぶ。1世帯につき電化製品6点セット(テレビ、洗濯機、冷蔵庫、クーラー、炊飯器、ポット)が日赤から送られている。その他に食器類、布団も家族数ついている。
お昼にボランティアや地域の人たちが作ったそうめんの昼食が準備されていた。それを手伝っていると地域の女性が「みんな自分でしてもらうようにしないと駄目よ!運ぶのは取りにこれない人だけ!薬味も自分でね!」と言う。漬物もたくさん並ぶ。それも地域の女性たちが家でつくって持ってくるらしい。「なるべく地元のもので手作りでと思ってね」と言う。その女性は観光ボランティアを今年から始めるはずだったらしい。こんな状況になって、今は避難所の食事の責任者をしている。大船渡の観光パンフを渡され、「本当にいいところ、いつかきっとまたきてほしい。その時は案内するよ。」と名刺もいただいた。
お昼にそうめんをいただきながら公民館館長の話を聞く 以下館長の話。
「ここは震災後、一番に米軍の支援がきたところ。津波に備え、防災訓練を何度も繰り返していた。今回も地震が起こった後、津波が来ると判断し住民が続々と漁村センターに避難してきた。百数世帯の他に海沿いの工場の人や目の前の小学校の児童や先生たちが避難し、300人近くが避難した。何回も訓練しているし、この公民館内の11地区の連携も日ごろからしっかり取れている。通信手段もなくなったので、センターの広場に円を描き、風向きを知らせるため吹流しも作った。それを米軍のヘリが見つけ、着陸し、物資を届けてくれた。それを知ったマスコミが瓦礫の中カメラを担いで歩いてセンターを取材に来た。その時、マスコミにあすもきてほしいと頼んだ。とにかく、この避難所にいる300人をカメラで写してくれ。無事であることを知らせたい。自分はその間、今、なにが必要なのかを話をする…と。そして翌日、マスコミが再び訪れて、希望通りの放映がされた。その後、全国から物資が届いた。だからこの避難所にはたくさんの支援物資がある。あす仮設住宅に半数以上の人が入居するのだが、他の避難所からも同じ仮設に入る。その時、支援物資を運ぶと不公平感が生まれる。だから入居する前に物資を運んでいる。米は1人につき20キロ、あとのものも家族数にあわせて運んでいる。仮設についてもこの地域は7月には全員入居できる。学校が被災しているから運動場も使えない。公有地でないと建設できないと行政は言うがそれではいつまでたっても建たない。そこで私有地を無料で借りる計画をすすめ、それで行政を動かした。待ってちゃなにもすすまないよ。本当の自立ができるまでみんなで助け合っていくよ。」また、「ボランティアもありがたいが、たくさんの人の話を聞き、自分の目でしっかり見ていってほしい」とも言われた。館長の力強い言葉に日ごろからの地域のつながりの大切さ、そして上に立つ人の行動力、判断力、交渉力そしてすてきな人間性を強く感じた。この館長も被災者であり、仮設に入居する一人である。またこんな話もしてくれた。「武田鉄也さんが避難所に来ることになった時、女性たちがわたしの手作りの黄色い腕章(防災責任者と手書きしてある)をみて、残りの布はないかと言ったので余っていた布を渡した。そうしたらみんなでそれをちぎり何をしたと思う?そう、黄色いハンカチです。武田さんを迎えるために黄色いハンカチをいっぱいつないだんです。武田さん本当に感激していました。」わたしもその話を聞いて涙が出た。その中心になっていたのが退職した先生だったらしい。石川の退女教の人の顔が浮かんだ。わかるような気がした。館長曰く「女性は強いよ。」
たくさん話をうかがって午後からはじめての写真洗浄。油が写真に付き、お湯につけて、筆でやさしくこすると油のかかった部分は塗料がとけて写真が消えていく…こんな写真いるんだろうか?と思うが、この写真しか思い出がないとしたら…ここに残っている人がある人にとっては大切な人だったらと思うと自分には判断できない。だからどんな写真でも残す。心が痛い。そんな作業を2時間続け、今日の作業は終わった。
1時間近くかけてボランティアセンターに到着。受付で今日の作業が割り当てられる。班ごとに仕事を割り振る。わが2班は「赤碕漁村センター」で写真の洗浄。一度テレビでみたことがある。結構精神的にきついなあ~と思いながら送迎の車に乗り込む。漁村センターに向かう途中、はじめて被災地をみる。周りは瓦礫の山。基礎しか残っていない家の跡。鉄骨むき出しのビル。テレビで見ていた風景が目の前に広がる…言葉にならない。右も左も同じ風景。小学校が見えてきた。2階まで水がきたらしく、もう使えなくて壊すんだと送迎のおじさんに教えてもらう。運動場は瓦礫置き場。もうこれでもかというほど高く積み上げてある。小学校前の道路を右折すると高台に保育園と漁村センターがある。その高台だけが被害を受けず残っている。そして避難所になっていた。
到着後、市役所の職員らしき人が「悪いけど、今から仮設住宅に荷物を運ぶから手伝って!」と結構ぶっきらぼうに話す。すぐに車に乗り、現地へ向かう。瓦礫の中を山のほうにすすむと被災を免れた地域に入る。しばらくすると仮設住宅が見えてくる。64世帯の仮設住宅。「○号棟の○号室 ○○さんち」というと鍵を開け軽トラの荷物を仮設に入れる。軽トラが何往復もして各世帯ごとに荷物を運んでくる。米、飲み物、缶詰類、カップヌードル、ペットボトル、トイレットペーパーなど、家族数に応じて数が違う。仮設の部屋数も家族数に応じて1Kから3Kまでそれぞれ…。よくみると集会場もある。ここが1つの町会となる。少しはなれたところには10世帯くらいの仮設がある。そこにも、荷物を運ぶ。1世帯につき電化製品6点セット(テレビ、洗濯機、冷蔵庫、クーラー、炊飯器、ポット)が日赤から送られている。その他に食器類、布団も家族数ついている。
お昼にボランティアや地域の人たちが作ったそうめんの昼食が準備されていた。それを手伝っていると地域の女性が「みんな自分でしてもらうようにしないと駄目よ!運ぶのは取りにこれない人だけ!薬味も自分でね!」と言う。漬物もたくさん並ぶ。それも地域の女性たちが家でつくって持ってくるらしい。「なるべく地元のもので手作りでと思ってね」と言う。その女性は観光ボランティアを今年から始めるはずだったらしい。こんな状況になって、今は避難所の食事の責任者をしている。大船渡の観光パンフを渡され、「本当にいいところ、いつかきっとまたきてほしい。その時は案内するよ。」と名刺もいただいた。
お昼にそうめんをいただきながら公民館館長の話を聞く 以下館長の話。
「ここは震災後、一番に米軍の支援がきたところ。津波に備え、防災訓練を何度も繰り返していた。今回も地震が起こった後、津波が来ると判断し住民が続々と漁村センターに避難してきた。百数世帯の他に海沿いの工場の人や目の前の小学校の児童や先生たちが避難し、300人近くが避難した。何回も訓練しているし、この公民館内の11地区の連携も日ごろからしっかり取れている。通信手段もなくなったので、センターの広場に円を描き、風向きを知らせるため吹流しも作った。それを米軍のヘリが見つけ、着陸し、物資を届けてくれた。それを知ったマスコミが瓦礫の中カメラを担いで歩いてセンターを取材に来た。その時、マスコミにあすもきてほしいと頼んだ。とにかく、この避難所にいる300人をカメラで写してくれ。無事であることを知らせたい。自分はその間、今、なにが必要なのかを話をする…と。そして翌日、マスコミが再び訪れて、希望通りの放映がされた。その後、全国から物資が届いた。だからこの避難所にはたくさんの支援物資がある。あす仮設住宅に半数以上の人が入居するのだが、他の避難所からも同じ仮設に入る。その時、支援物資を運ぶと不公平感が生まれる。だから入居する前に物資を運んでいる。米は1人につき20キロ、あとのものも家族数にあわせて運んでいる。仮設についてもこの地域は7月には全員入居できる。学校が被災しているから運動場も使えない。公有地でないと建設できないと行政は言うがそれではいつまでたっても建たない。そこで私有地を無料で借りる計画をすすめ、それで行政を動かした。待ってちゃなにもすすまないよ。本当の自立ができるまでみんなで助け合っていくよ。」また、「ボランティアもありがたいが、たくさんの人の話を聞き、自分の目でしっかり見ていってほしい」とも言われた。館長の力強い言葉に日ごろからの地域のつながりの大切さ、そして上に立つ人の行動力、判断力、交渉力そしてすてきな人間性を強く感じた。この館長も被災者であり、仮設に入居する一人である。またこんな話もしてくれた。「武田鉄也さんが避難所に来ることになった時、女性たちがわたしの手作りの黄色い腕章(防災責任者と手書きしてある)をみて、残りの布はないかと言ったので余っていた布を渡した。そうしたらみんなでそれをちぎり何をしたと思う?そう、黄色いハンカチです。武田さんを迎えるために黄色いハンカチをいっぱいつないだんです。武田さん本当に感激していました。」わたしもその話を聞いて涙が出た。その中心になっていたのが退職した先生だったらしい。石川の退女教の人の顔が浮かんだ。わかるような気がした。館長曰く「女性は強いよ。」
たくさん話をうかがって午後からはじめての写真洗浄。油が写真に付き、お湯につけて、筆でやさしくこすると油のかかった部分は塗料がとけて写真が消えていく…こんな写真いるんだろうか?と思うが、この写真しか思い出がないとしたら…ここに残っている人がある人にとっては大切な人だったらと思うと自分には判断できない。だからどんな写真でも残す。心が痛い。そんな作業を2時間続け、今日の作業は終わった。
6月21日(火)今日は1日写真洗浄
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昨日に続いて写真の仕事。今日は2班から3人、個人ボランティアが2人いた。今日の写真はアルバムが多い。家族写真。どのページも笑顔の写真。子どもの成長とともにコメントも付いている。この家族はどうなったんだろう。家は被災したけど、家族は元気なのか?目の前の赤碕小学校の卒業アルバム。みんなが過ごした思い出の学校は悲惨な姿に…。今は近くの学校にスクールバスで通っているという。結婚式のアルバム。出産時のアルバム。もう、いろんな思いがこみ上げてきて、今日も作業しながら涙が…。つらいなあ~。
休憩時間に個人ボランティアの人と話をする。一人は東京から1ヶ月前に大船渡に入った40代半ばの女性。自分の目で支援を必要としているところをさがすめに、6時間自転車で被災地を見て回ったらしい。そして、支援物資も届かない保育園への支援を決め、東京にいるなかまと物資を集めているという。被災していないので支援はないが、ものがないのはどこも一緒なんだと言っていた。今一番必要なものは何?と聞いたところ、今は虫除けパッチ…なかなか手に入らないという。たくさんはいらない。一人1000円分くらいを送ってもらえば、そんな人がたくさんいてくれればそれで集まると思っている。無理はしないでほしい。それを聞き、金沢へ帰ったら送ると約束し、住所を聞いた。ちなみに彼女は保育園の倉庫で寝袋で暮らす。恵まれた中で寝泊りしている自分が恥ずかしくなった。もう一人は陸前高田から来ている若者。陸前高田は壊滅的な被害のあったところ。地元でなぜしないのか、ときいたところ、陸前高田は個人ボランティアは受け付けていないという。個人を受け付けられないほどひどい状況だということか?彼女は3月11日盛岡に仕事で行っていたらしい。どうにかして戻ってみると信じられない光景が広がっていた。電気も水道もダメで一体何が起こっているのか、まったくわからない状況が続いていた。会社は被災しなかったので仕事は続けているが、従業員が毎日交代でボランティアにでているという。自分たちもきっと大変な状況なのに、ボランティアをしている彼女には何も言えなかった。涙を流している場合ではない。自分が情けなくなってきた。
2日続けて漁村センターに通ううち、館長さんや最初ぶっきらぼうだった職員さんが笑顔で差し入れを持ってきてくれたり、話しかけたりしてくれた。避難所にいた女性がわたしの洗っている写真を見て「これ、○○の写真だ~。通知表まであるわ」といって甥っ子の写真をみつけ大喜び。「大事にもらっとくよ」と親戚に電話をかけている姿を見てすごくうれしかった。気持ちよく今日一日の作業を終えることができた。しかし泥にまみれた写真はまだまだたくさん残っている。
休憩時間に個人ボランティアの人と話をする。一人は東京から1ヶ月前に大船渡に入った40代半ばの女性。自分の目で支援を必要としているところをさがすめに、6時間自転車で被災地を見て回ったらしい。そして、支援物資も届かない保育園への支援を決め、東京にいるなかまと物資を集めているという。被災していないので支援はないが、ものがないのはどこも一緒なんだと言っていた。今一番必要なものは何?と聞いたところ、今は虫除けパッチ…なかなか手に入らないという。たくさんはいらない。一人1000円分くらいを送ってもらえば、そんな人がたくさんいてくれればそれで集まると思っている。無理はしないでほしい。それを聞き、金沢へ帰ったら送ると約束し、住所を聞いた。ちなみに彼女は保育園の倉庫で寝袋で暮らす。恵まれた中で寝泊りしている自分が恥ずかしくなった。もう一人は陸前高田から来ている若者。陸前高田は壊滅的な被害のあったところ。地元でなぜしないのか、ときいたところ、陸前高田は個人ボランティアは受け付けていないという。個人を受け付けられないほどひどい状況だということか?彼女は3月11日盛岡に仕事で行っていたらしい。どうにかして戻ってみると信じられない光景が広がっていた。電気も水道もダメで一体何が起こっているのか、まったくわからない状況が続いていた。会社は被災しなかったので仕事は続けているが、従業員が毎日交代でボランティアにでているという。自分たちもきっと大変な状況なのに、ボランティアをしている彼女には何も言えなかった。涙を流している場合ではない。自分が情けなくなってきた。
2日続けて漁村センターに通ううち、館長さんや最初ぶっきらぼうだった職員さんが笑顔で差し入れを持ってきてくれたり、話しかけたりしてくれた。避難所にいた女性がわたしの洗っている写真を見て「これ、○○の写真だ~。通知表まであるわ」といって甥っ子の写真をみつけ大喜び。「大事にもらっとくよ」と親戚に電話をかけている姿を見てすごくうれしかった。気持ちよく今日一日の作業を終えることができた。しかし泥にまみれた写真はまだまだたくさん残っている。
6月22日(水)今日も写真洗浄
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館長さんや職員さんに笑顔でむかえられあかるくあいさつ。3日連続はきついなあと思いながら写真洗浄をはじめる。なんだか淡々と仕事をしている自分が嫌だと思う。時々、避難所にいる人が写真をのぞき、知ってる人がいないか見ている。「みんなの大切な写真。だからしっかりやらなきゃ!」と自分に言い聞かせ、ていねいに洗う。今日はとても暑い。写真が乾きそうだ。時々支援物資が運ばれてきて、それを避難所に運ぶ作業も入った。
昼休み、被災地を歩いてみた。小さな溶接工場が仕事を再開している。周りは瓦礫も積みあがっている状況だけれど一歩踏み出しているようすに力強さを感じた。館長が言っていた。「一番強いのは自営業。一番弱いのはサラリーマン」。
午後からどこかのロータリークラブの人が女性2人とカメラマンを連れて避難所を訪問してきた。若い女性にボランティアを経験させてほしいと言う。やさしく写真洗浄を教える。カメラマンが写真を撮る。10枚ほど洗い、干した後、挨拶もせず帰っていく。これって何?写真を写すためだけ?これで広報紙かなにかに「ボランティアしました」って書くわけ?ふざけるのもいい加減にして!とそこにいた誰もが思った。こんな人もいるんだなあ~。気分が悪い…。ちなみにロータリーの偉そうなおじさんはスーツ姿…。こんな場にはもっともふさわしくない集団だ!
昼休み、被災地を歩いてみた。小さな溶接工場が仕事を再開している。周りは瓦礫も積みあがっている状況だけれど一歩踏み出しているようすに力強さを感じた。館長が言っていた。「一番強いのは自営業。一番弱いのはサラリーマン」。
午後からどこかのロータリークラブの人が女性2人とカメラマンを連れて避難所を訪問してきた。若い女性にボランティアを経験させてほしいと言う。やさしく写真洗浄を教える。カメラマンが写真を撮る。10枚ほど洗い、干した後、挨拶もせず帰っていく。これって何?写真を写すためだけ?これで広報紙かなにかに「ボランティアしました」って書くわけ?ふざけるのもいい加減にして!とそこにいた誰もが思った。こんな人もいるんだなあ~。気分が悪い…。ちなみにロータリーの偉そうなおじさんはスーツ姿…。こんな場にはもっともふさわしくない集団だ!
6月23日(木)今日は視察
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朝6時半頃大きな地震。ずいぶん長く揺れた。雨で地盤が緩んでいる中での余震は怖い。しかし今日は予定通り、被災地を視察する。1~4班が視察、残りが作業。あすは交替。コースは釜石から大追町、大船渡、陸前高田。運転手さんがマイクを片手に持ち、説明をしてくれる。
釜石はラグビーの町。赤いジャージの新日鐵釜石!工場は被災を免れていたが駐車場には見るも無惨な車が積み上げられている。釜石市内にはいるとあちこちのビルが骨組みだけになっている。
町長がなくなったという大追町。建物らしきものは全くない。本当になんにもない。駅もホームだけ残り線路は途切れている。京都府警の車が2台止まっている。遺体がみつかったのだろうか。カラスが群がるとそこに遺体があるらしい。遠くで警棒をもって捜索しているのが見える。バスから降りてその場に立つと言葉にならない、胸が締め付けられる。自然と涙がこぼれる…。つらすぎる。車に乗り込むとあちらこちらに赤い旗が立つ。それは死体がみつかった場所なのだろうか。旗に何か書いてあるがよく読めない。名前なのか、残された家族がなにか書き込んだのか…。また涙が…。大船渡の海岸線沿いを行く。道路に船が乗り上げている。流された車が集まられ、山積みされている。
陸前高田に入る。報道で壊滅状態と言われていたところである。壊滅状態ってこのことをいうんだと思う。本当に見渡す限り何もない。地盤沈下であちらこちらで湖のように水がたまっている。バスの中で「なにもない!ひどすぎる!ほんとうになにもない!」とつぶやくなかまがいる。うん、わたしもそう思う…と心でつぶやきながらまた涙が…。ここの復旧はいつになるのだろう。昨日まで作業してきた大船渡は一歩ずつ前にすすんでいるように感じたが、ここはいつになるのか。2キロにわたって立つ7万本の松が観光名所となっていた高田の松原には今1本の松しか残っていない。この風景の中で7万本の松があったなんて想像できない。2日前に若者が言っていた個人ボランティアを受け付けできないわけがよくわかった。
岩手では子どもたちの犠牲者はいない。どの地域も津波に対する防災意識は強い。学校も防災訓練を繰り返し行っている。ある学校ではらせん階段を1階まで降りてから道に出て避難することになっていたらしいが、これではダメだとある市議会議員が議会で訴え続け、2階から道路に出る階段を400万円かけて12月につけたという。その階段のおかげで誰一人犠牲者を出すことなく、避難することができたらしい。その市議は1月に病気で亡くなったそうだ。そういえば写真洗浄していた高台の赤崎漁村センターも道路の真下にある赤崎小学校の避難場所だが、玄関から一直線に避難できるように階段がつけられていた。想像を絶する津波であったが、学校の子どもたちを守るための方策がとられていたことは本当によかった。
今日一日、現実を目の当たりにして自分たちがしていることはほんのわずかの力にしかならないけれど、あすからの作業もしっかりやらなくてはと気持ちを新たにした。
そして夜、食事の前に地元の地協の事務局長の話を聞く。以下事務局長の話。
「本来なら地協の議長が話をするべきところですが、議長はまだ行方不明です。わたしが今から話すことは報道されていないことです。話していいのかどうかわかりませんが話をします。わたしは海岸沿いのベニヤの工場に勤めています。大きな地震があったとき津波がくると考え従業員に高台に避難するように指示しました。誰も残っていないことを確認し、最後に工場を出ました。車で行こうと思いましたが道は大渋滞でした。そこであきらめて走って高台に向かいました。車は高台に向かって2車線となり、歩道にはにげる人たち。そこで何が起きたか…車が歩道を走り出し4車線になっていきます。歩道には人…車が人をはねていきます。高台についたときに津波がきました。車も人も飲み込んでいきます。車が流されます。車の中ではみんな窓をたたいています。たたきながら流されていきました。いまでも夢に見ます。次の日工場を確認しに行きました。途中、数十体の遺体を見ました。すべて残っている遺体は数体しかありません。手だけ、足だけ、首から上だけ…すごい光景です。時々夢に見ます。」淡々と語られた。あまりにも淡々と語るので余計につらかった。光景を想像するだけでつらくてつらくて泣けてきた。歩道を走った車。ひどいことだ。でも、わたしには責めることはできない。人間って最後はそうなってしまうのか…自分もそうなってしまうかもしれない。あのときテレビの映像をみながら、そんなことが起こっていただなんて考えもしなかった。事務局長は自分が見、体験したことを連合のなかまに話している。しかし、同じ光景を見ていた多くの人たちは誰にも語ることもできず、ずっと心に締まっているのだろうか。それもまたつらいことだ。この話は今日視察で見てきた風景と重なりとてもずっしりと心に残った。
釜石はラグビーの町。赤いジャージの新日鐵釜石!工場は被災を免れていたが駐車場には見るも無惨な車が積み上げられている。釜石市内にはいるとあちこちのビルが骨組みだけになっている。
町長がなくなったという大追町。建物らしきものは全くない。本当になんにもない。駅もホームだけ残り線路は途切れている。京都府警の車が2台止まっている。遺体がみつかったのだろうか。カラスが群がるとそこに遺体があるらしい。遠くで警棒をもって捜索しているのが見える。バスから降りてその場に立つと言葉にならない、胸が締め付けられる。自然と涙がこぼれる…。つらすぎる。車に乗り込むとあちらこちらに赤い旗が立つ。それは死体がみつかった場所なのだろうか。旗に何か書いてあるがよく読めない。名前なのか、残された家族がなにか書き込んだのか…。また涙が…。大船渡の海岸線沿いを行く。道路に船が乗り上げている。流された車が集まられ、山積みされている。
陸前高田に入る。報道で壊滅状態と言われていたところである。壊滅状態ってこのことをいうんだと思う。本当に見渡す限り何もない。地盤沈下であちらこちらで湖のように水がたまっている。バスの中で「なにもない!ひどすぎる!ほんとうになにもない!」とつぶやくなかまがいる。うん、わたしもそう思う…と心でつぶやきながらまた涙が…。ここの復旧はいつになるのだろう。昨日まで作業してきた大船渡は一歩ずつ前にすすんでいるように感じたが、ここはいつになるのか。2キロにわたって立つ7万本の松が観光名所となっていた高田の松原には今1本の松しか残っていない。この風景の中で7万本の松があったなんて想像できない。2日前に若者が言っていた個人ボランティアを受け付けできないわけがよくわかった。
岩手では子どもたちの犠牲者はいない。どの地域も津波に対する防災意識は強い。学校も防災訓練を繰り返し行っている。ある学校ではらせん階段を1階まで降りてから道に出て避難することになっていたらしいが、これではダメだとある市議会議員が議会で訴え続け、2階から道路に出る階段を400万円かけて12月につけたという。その階段のおかげで誰一人犠牲者を出すことなく、避難することができたらしい。その市議は1月に病気で亡くなったそうだ。そういえば写真洗浄していた高台の赤崎漁村センターも道路の真下にある赤崎小学校の避難場所だが、玄関から一直線に避難できるように階段がつけられていた。想像を絶する津波であったが、学校の子どもたちを守るための方策がとられていたことは本当によかった。
今日一日、現実を目の当たりにして自分たちがしていることはほんのわずかの力にしかならないけれど、あすからの作業もしっかりやらなくてはと気持ちを新たにした。
そして夜、食事の前に地元の地協の事務局長の話を聞く。以下事務局長の話。
「本来なら地協の議長が話をするべきところですが、議長はまだ行方不明です。わたしが今から話すことは報道されていないことです。話していいのかどうかわかりませんが話をします。わたしは海岸沿いのベニヤの工場に勤めています。大きな地震があったとき津波がくると考え従業員に高台に避難するように指示しました。誰も残っていないことを確認し、最後に工場を出ました。車で行こうと思いましたが道は大渋滞でした。そこであきらめて走って高台に向かいました。車は高台に向かって2車線となり、歩道にはにげる人たち。そこで何が起きたか…車が歩道を走り出し4車線になっていきます。歩道には人…車が人をはねていきます。高台についたときに津波がきました。車も人も飲み込んでいきます。車が流されます。車の中ではみんな窓をたたいています。たたきながら流されていきました。いまでも夢に見ます。次の日工場を確認しに行きました。途中、数十体の遺体を見ました。すべて残っている遺体は数体しかありません。手だけ、足だけ、首から上だけ…すごい光景です。時々夢に見ます。」淡々と語られた。あまりにも淡々と語るので余計につらかった。光景を想像するだけでつらくてつらくて泣けてきた。歩道を走った車。ひどいことだ。でも、わたしには責めることはできない。人間って最後はそうなってしまうのか…自分もそうなってしまうかもしれない。あのときテレビの映像をみながら、そんなことが起こっていただなんて考えもしなかった。事務局長は自分が見、体験したことを連合のなかまに話している。しかし、同じ光景を見ていた多くの人たちは誰にも語ることもできず、ずっと心に締まっているのだろうか。それもまたつらいことだ。この話は今日視察で見てきた風景と重なりとてもずっしりと心に残った。
6月24日(金)今日は「アベチョ~」
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今日の作業はうわさの阿部長商店。阿部長商店とは昨年8月大船渡で操業をはじめたばかりの地元では有名な水産加工場。大型冷蔵・冷凍庫を所有、今回の震災でその施設が破損し、4月には保存していたサバやマグロ、イカなどの処分作業を行ったらしい。今回の作業は重機で細かく砕いた断熱材を袋につめる作業…。断熱材には腐敗した魚の汁がべっとり…。その臭いを伝えられないのは残念だが、目が痛くて涙が出、臭さで頭が痛くなるほどのものだった。今日は日教組全員でその作業を行う。あまりの臭いにしまいには笑えてしまう。息のあった作業で断熱材の山が少しずづ小さくなっていく。作業着や手袋や長靴についた臭いはどんなに洗ってもとれない。髪の毛にも手にも身体にも臭いがしみつく。処分作業を行ったのは石川高のボランティアチームだったらしく、それに比べたらまだましな作業だなあと思いながら黙々と作業をした。いっしょに参加した森さんの班はこの作業を3日もしている。帰りに寄った温泉では髪の毛も顔も身体もすべて3回洗ってタオルも帽子も洗い、まだ臭いのとれないマイクロバスで宿舎に帰った。その日の交流会は「アベチョー」で大いに盛り上がった。
しかし、大船渡の町にはこの臭いが充満している。毎日、この中で生活している人がいる。これからますます暑くなってくると本当に大変だ。ハエも異常発生し、衛生面でも心配だ。すぐに帰ってしまうわたしたちには笑ってすまされることでも地元の人にとっては日が経つにつれ、暑くなるにつれ、悩みの種になるんだろう。報道では伝わらないもの、それはまさにその「臭い」である。
しかし、大船渡の町にはこの臭いが充満している。毎日、この中で生活している人がいる。これからますます暑くなってくると本当に大変だ。ハエも異常発生し、衛生面でも心配だ。すぐに帰ってしまうわたしたちには笑ってすまされることでも地元の人にとっては日が経つにつれ、暑くなるにつれ、悩みの種になるんだろう。報道では伝わらないもの、それはまさにその「臭い」である。
6月25日(土)支援物資搬入搬出作業
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今日は立根(たっこん)小学校にて支援物資の搬出搬入作業。大船渡市内にある市民体育館は震災の翌日より死体安置所になっていた。身元不明者も少なくなり、別の場所に移し、市内小中学校の体育館にある支援物資を一斉に市民体育館に運ぶらしい。市内の学校は運動場には仮設住宅、体育館には物資で子どもたちが運動する場がなくなっている。一日も早く体育館を子どもたちに返したい。前日に市民体育館で作業したなかまが「市民体育館にはまだ独特の臭いが残っている」と言っていたが100日以上も死体安置所になっていたのだから相当なものなんだろう。
立根小学校は今後食料物資置き場になる。朝早くには自衛隊員が炊き出しをするために必要な食料品を運び出していた。体育館の入って右側には食料品が左側には衣料、トイレットぺーパーや紙おむつなど日用品が天井近くまで積み上げてある。市内の物資置き場から食料品が届き、10トントラックで日用品を運び出す。その作業が1日続く。軽井沢で英語教室を開いているというアメリカ人のランディーがボランティアに入っている。ずいぶん前から来ているらしく地元の人ともうち解けている。わたしたち女性班も今日で帰ってしまう連合秋田組と息ピッタリ?で次々と作業をこなす。一山、二山と荷物は片づいていくが、今日一日では終わりそうにない。
お昼の休憩でいっしょに作業をしていた地元の方と話をする。「わたしの会社は被災しました。だから今は仕事がありません。毎日ここで作業をするうちに物資の管理をするようになりました。仕事がないので収入もありません。それでも家賃を払い光熱費も生活費もかかります。仮設住宅に当たったのに生活できないから入らないなんておかしいですよ。わたしたちだって同じです。家賃がないだけでも幸せです。」と話す。最初に行った避難所では、仮設住宅に入って生活することの大変さを聞いていた。しかし、一方では仕事を失って収入をなくし、支援物資も届かず、自力で生活している人もいる。どちらの言い分が正しいなんて言えないけれど、被災地に生活する人たちはみんな被災者なんだと改めて思った。立根小学校の責任者とも話をする。てっきり地元の人かと思ったら「鹿児島から派遣されてきて、昨日ここの責任者になりました。全然何もわからないんです。」と話す。全国の自治体からたくさんの職員が派遣されているが、いろいろな業務があるようだ。でも、やっぱり一番頼りになるのはずっと管理を続けている地元の女性。この人がいないとここの物資は片づかない。
物資の搬入をする運送会社の若者が今日ボランティアに来ていた岩手県教組の男性に「先生!」と声をかける。教え子との再会。同じ目的で同じ場所に立つ教え子と先生。ちょっとほほえましくて感動的な再会だった。
立根小学校は今後食料物資置き場になる。朝早くには自衛隊員が炊き出しをするために必要な食料品を運び出していた。体育館の入って右側には食料品が左側には衣料、トイレットぺーパーや紙おむつなど日用品が天井近くまで積み上げてある。市内の物資置き場から食料品が届き、10トントラックで日用品を運び出す。その作業が1日続く。軽井沢で英語教室を開いているというアメリカ人のランディーがボランティアに入っている。ずいぶん前から来ているらしく地元の人ともうち解けている。わたしたち女性班も今日で帰ってしまう連合秋田組と息ピッタリ?で次々と作業をこなす。一山、二山と荷物は片づいていくが、今日一日では終わりそうにない。
お昼の休憩でいっしょに作業をしていた地元の方と話をする。「わたしの会社は被災しました。だから今は仕事がありません。毎日ここで作業をするうちに物資の管理をするようになりました。仕事がないので収入もありません。それでも家賃を払い光熱費も生活費もかかります。仮設住宅に当たったのに生活できないから入らないなんておかしいですよ。わたしたちだって同じです。家賃がないだけでも幸せです。」と話す。最初に行った避難所では、仮設住宅に入って生活することの大変さを聞いていた。しかし、一方では仕事を失って収入をなくし、支援物資も届かず、自力で生活している人もいる。どちらの言い分が正しいなんて言えないけれど、被災地に生活する人たちはみんな被災者なんだと改めて思った。立根小学校の責任者とも話をする。てっきり地元の人かと思ったら「鹿児島から派遣されてきて、昨日ここの責任者になりました。全然何もわからないんです。」と話す。全国の自治体からたくさんの職員が派遣されているが、いろいろな業務があるようだ。でも、やっぱり一番頼りになるのはずっと管理を続けている地元の女性。この人がいないとここの物資は片づかない。
物資の搬入をする運送会社の若者が今日ボランティアに来ていた岩手県教組の男性に「先生!」と声をかける。教え子との再会。同じ目的で同じ場所に立つ教え子と先生。ちょっとほほえましくて感動的な再会だった。
6月26日(日)作業最終日 民家の床下の泥出し
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いよいよ今日で作業が終わる。今日は市内の千葉さん宅の床下の泥出しである。千葉さん宅へ向かう。住宅地の入口付近に建つ千葉さん宅は坂の下の方にあり、一階部分が被災している。昨日壁を壊し、床板をはがし、床下がむき出しになっていた。千葉さん宅の隣の家も前の家も基礎しか残っていない。そして下に広がる風景はすべて被災してまだ瓦礫が残っている。すぐ下には大きなスーパーがあったらしいが今はきれいに片づけられ、跡形もない。看板も遠くに流されてしまったようだ。
作業は床下に潜ってゴミを取り、シャベルで泥をすくって土嚢に詰める。とにかく腰が痛い。4部屋を半日かけてきれいにする。床下からお孫さんの写真がきれいなままみつかりご夫婦にっこり。午後からは石灰を床下にまき、消毒。その後、家の廊下や玄関、押し入れなどをそうじする。泥だらけの家の中がとてもきれいになっていく。
ご夫婦から話を聞く。妻「地震当日は2人とも仕事に出かけていて家には息子が一人でいました。地震がおさまり外に遊びに行くため車に乗ろうと思ったときに、高台に住む同級生が大声で『津波が来るぞ~』と叫び、あわてて2階にあがり、危機一髪で助かりました。車は流され、未だにみつかっていないけどね。わたしは職場にいたので2日間大船渡中学校で避難生活をしました。歩いて家を見に行きましたがあまりの惨状に家まで行くことができず引き返しました。最近まで家をみながら、どこから手をつければいいのか、何からはじめていいのかと思いながらなにもせずにいましたが、ボランティアのみなさんがきてここまできれいにしていただき、本当に助かりました。」
夫「私の会社はトラックをもっています。地震の翌日、社長は市役所へ行き、トラックが無事で残っているし何でもするから言ってくれ、と申し出ました。今は10トントラックで支援物資を市民体育館に搬入しています。霊柩車ももっているので連日火葬場に行きました。一日5往復しました。地元の火葬場だけでは足りないので内陸の方まで行きました。朝の5時から夜の10時まで火葬場はフル稼働でした。今はすべて火葬が終わっています。いままでも遺体を運んだことがありますが今回は今までと違います。臭いがね。」その運送会社は偶然にも昨日の10トントラックの会社だった。また、こんな話もしてくれた。「知り合いの息子さんが陸前高田に婿入りしていました。地震で妻も義理の父母も亡くしました。1人になって住むところもなく、千葉さんの家に預かってもらえないかと頼まれたけど、うちも被災して住める状態ではないと断りました。その数日後、その方は自殺をしました。うちで受け入れることができていたらそんなことにはならなかっただろうに…。」被災した人それぞれがいろいろなつらい思いを抱えている。庭に赤いバラの花が咲いていた。この花は今年、今までで一番たくさんの花をつけ、きれいなんだと話された。別れ際「1年後にもう一度来てほしい」と言われた。復旧にむけての決意にも聞こえた。このご夫婦の話を聞きながら、ボランティアって、被災した人たちが少しでも前を向いてすすめるための手伝いなんだということを強く感じた。
作業は床下に潜ってゴミを取り、シャベルで泥をすくって土嚢に詰める。とにかく腰が痛い。4部屋を半日かけてきれいにする。床下からお孫さんの写真がきれいなままみつかりご夫婦にっこり。午後からは石灰を床下にまき、消毒。その後、家の廊下や玄関、押し入れなどをそうじする。泥だらけの家の中がとてもきれいになっていく。
ご夫婦から話を聞く。妻「地震当日は2人とも仕事に出かけていて家には息子が一人でいました。地震がおさまり外に遊びに行くため車に乗ろうと思ったときに、高台に住む同級生が大声で『津波が来るぞ~』と叫び、あわてて2階にあがり、危機一髪で助かりました。車は流され、未だにみつかっていないけどね。わたしは職場にいたので2日間大船渡中学校で避難生活をしました。歩いて家を見に行きましたがあまりの惨状に家まで行くことができず引き返しました。最近まで家をみながら、どこから手をつければいいのか、何からはじめていいのかと思いながらなにもせずにいましたが、ボランティアのみなさんがきてここまできれいにしていただき、本当に助かりました。」
夫「私の会社はトラックをもっています。地震の翌日、社長は市役所へ行き、トラックが無事で残っているし何でもするから言ってくれ、と申し出ました。今は10トントラックで支援物資を市民体育館に搬入しています。霊柩車ももっているので連日火葬場に行きました。一日5往復しました。地元の火葬場だけでは足りないので内陸の方まで行きました。朝の5時から夜の10時まで火葬場はフル稼働でした。今はすべて火葬が終わっています。いままでも遺体を運んだことがありますが今回は今までと違います。臭いがね。」その運送会社は偶然にも昨日の10トントラックの会社だった。また、こんな話もしてくれた。「知り合いの息子さんが陸前高田に婿入りしていました。地震で妻も義理の父母も亡くしました。1人になって住むところもなく、千葉さんの家に預かってもらえないかと頼まれたけど、うちも被災して住める状態ではないと断りました。その数日後、その方は自殺をしました。うちで受け入れることができていたらそんなことにはならなかっただろうに…。」被災した人それぞれがいろいろなつらい思いを抱えている。庭に赤いバラの花が咲いていた。この花は今年、今までで一番たくさんの花をつけ、きれいなんだと話された。別れ際「1年後にもう一度来てほしい」と言われた。復旧にむけての決意にも聞こえた。このご夫婦の話を聞きながら、ボランティアって、被災した人たちが少しでも前を向いてすすめるための手伝いなんだということを強く感じた。
おわりに
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いつもと同じように五葉温泉に寄り、ベースキャンプで夕食をとり、そして解散式。連合岩手の人の話を聞く。「子どもたちの未来をつぶさない!子どもたちの夢をつぶさない!そんな思いでいます。」事務局の手伝いにきていた岩手高教組の組合員「本当にみなさんには感謝してます」という涙ながらのあいさつ。最後までわたしは涙…。
この10日間、全国の連合のなかまとともに目的一つで過ごした。ともに汗を流した。ほんとうにすばらしいなかまと出会えた。連合ボランティアが今回で11次、今後も続いていく。連合の組織力を感じた。日教組も連合の一単組にすぎない。だから、今次は日教組の1次から続く「つなぐ」のメッセージはやめることにした。第11次のメンバー全員でやり遂げたのだから、みんなの写真を残した。
この10日間、本当に貴重な体験をさせていただいた。気持ちよく送り出してくれた書記局のみなさんや家族には感謝している。現場の教職員だったらこのことをしっかり子どもたちに伝えることができるのに、申し訳ないと思っている。だからわたしが出会った現地の人たちが話してくれたことを多くの人に伝えないとわたしが行かせてもらった意味がないと思っている。この拙いレポートで何が伝わるのか不安だが、少しでも現地のようすがわかっていただけたらと思う。
これからわたしは現地で出会った人のことを忘れず、すべての人たちが本当の笑顔を取り戻すことができるように、1日でも早い復興を願いながら生活していこうと思う。
この10日間、全国の連合のなかまとともに目的一つで過ごした。ともに汗を流した。ほんとうにすばらしいなかまと出会えた。連合ボランティアが今回で11次、今後も続いていく。連合の組織力を感じた。日教組も連合の一単組にすぎない。だから、今次は日教組の1次から続く「つなぐ」のメッセージはやめることにした。第11次のメンバー全員でやり遂げたのだから、みんなの写真を残した。
この10日間、本当に貴重な体験をさせていただいた。気持ちよく送り出してくれた書記局のみなさんや家族には感謝している。現場の教職員だったらこのことをしっかり子どもたちに伝えることができるのに、申し訳ないと思っている。だからわたしが出会った現地の人たちが話してくれたことを多くの人に伝えないとわたしが行かせてもらった意味がないと思っている。この拙いレポートで何が伝わるのか不安だが、少しでも現地のようすがわかっていただけたらと思う。
これからわたしは現地で出会った人のことを忘れず、すべての人たちが本当の笑顔を取り戻すことができるように、1日でも早い復興を願いながら生活していこうと思う。